こきあブログ

冬眠したいアラフォー主婦のちょこちょこ雑記

小学校の評価について

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※以下の私の感想は、誰もが等しく入学できる公立の小学校でのこと(もっと言うと私が経験した関東地方での評価)を書いたものです。入学にあたり、すでに選抜されていたり、児童数がごく少数だったりといった場合は、また違うと思いますが、それらについては経験がありません。個人的な感想として読んでいただければと思います。

 

「小学校の成績は、目立った者勝ちという側面がある」

 

私、私の姉、長女。

長女は、まだ小学校に通って1年も経っていませんが・・・。

数少ない経験からですが、今はこう思っています。

 

姉。長女にありがちなおっとり、おとなしい性格(子どもの時は)。

ちゃんとしていて、勉強もできているのに、なかなか評価につながりませんでした。

母がやきもきして、「もっと先生にアピールしなさいよ~」と言っていたのをよく聞きました。

 

私。末っ子にありがりな目立ちたがり屋なところもあり、

家庭内で親、姉の言動を見ているので、自然に空気を読んでしまうタイプ。

特に、私の小学校の同級生は、ほとんどが同じ幼稚園から進学したお友だち。

ほぼ全員が知っている状態。

なので、入学した時からある意味ホームで、周りの反応などを必要以上に気にせず、天真爛漫にふるまっていました。

 

長女。姉に似て、おっとり、おとなしめ。

しかし、ホームを感じると、ずっとしゃべっている(笑)

 

長女の小学校は、7割ほどが同じ幼稚園から進学し、残りの3割くらいが他の幼稚園・保育園からの子たち。

出身の保育園からは、長女一人しかいません。

なので、長女は私と比べて、初めての小学校、初めてのお友だち、初めての先生。

初めて尽くしの中、クラスの子とお友だちになったり、そのお友だちの反応をうかがったり・・・。

ある意味、親の都合・家庭の都合で、長女に大変な思いをさせてしまって申し訳ない気もしています。

 

周りのお友だちも、長女がどういう子であるかを知らないので、最初はおそらくお互い探り探り。

先生も、長女については他の子から得られる情報もないので、本人のおとなしさと相まって、長女はクラスでも目立たない存在だったと思います。

なので、前に書いた、長女の最初の成績に「B」が多かったということにつながるのかなと今は思っています。

※長女の初めての成績について書いた記事はこちら⇒

kochia-tohminneko.hatenablog.com

 

目立つのは、良い面であればなんでもいいと思います。

勉強を頑張っているでも、運動ができるでも、手先が器用でも、字が上手でも。

でも、平均より上というのではなく、何の面でも、クラスで1,2、

もっと言うと学年で1,2を争うくらいの目立ち方が必要だと思います。

 

そうすると、先生も「おっ!?この子はこんなことが上手なんだな」と気づいて、それ以外の時もその子を「この面はどうだろう」と、気にかけながら見る。

そうすると、今まで目立っていなかった面も、「意外とできるんだな」と認識されてよいサイクルが生まれてくる。

正直、中学校や高校のように、全員が同じテストを受けて点数で順番が決まるという客観的評価がしにくく、

ある程度の主観が入ることが否めない小学校の評価というのは、こういう側面があると思います。 

 

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別に、小学校の成績なんて、どうでもいいっちゃどうでもいいんです。

直接的には、その後に何も影響しないし(と勝手に思っているだけか?)

 

でも、

根拠のない自信のなさが身についてしまうのが怖いのです。

 

私の場合。

私の家はかなり教育熱心な家庭だったので、私は小学校の成績はまぁまぁ良かった方です。

計算が早くて正確なのでみんなの前で褒められたり、算数はかせと言われたり。

(中学高校の数学のダメダメ度合いを知っている姉からは、なにそれ!?と嘲笑されます)

なにせ天真爛漫だったのでたぶん自己主張もしていたのでしょう、周りのお友だちやお母さんたち、担任の先生からも、「tohminnekoちゃんは勉強ができる」という認識で見られていたと思います。

1回そういう先入観が構成されると、よほどテストの結果が悪かったりといった厳然たる事実がないと、あまり悪い評価も付かなかったと記憶しています。

 

そして、自分自身にとっても、それはある意味緊張感(プレッシャーというほどの重圧ではないけれど)につながりました。

「私がこんな点数取ってはいけない」「私がこんなこと分からないなんて、おかしい」

結果、先生にも「分からない」と言うのが恥ずかしいと思ってしまったという副作用はありましたが、自分を支える矜持のようなものはあったと思います。

 

「自分はできるんだ」

「頑張れば、私だってできる」

 

そういう、根拠はなくてもいい、

努力できる、頑張れる、そのもととなる自信を失うようなことがないように

と、母は思っています。